目次
- アクセス・基本情報
- 生石神社とは
- 日本三奇石の一つ「浮石」の正体
- 古文書に記された1300年の歴史
- 竜山石の採石場としての歴史
- 石の宝殿の詳細な構造
- 謎に包まれた建造目的
- 神話と伝承
- 江戸時代の参詣ブーム
- まとめ
アクセス・基本情報
兵庫県JR宝殿駅(ほうでんえき)から約20分ほどの場所にある、とても珍しい神社を訪れました。その名は「生石神社」。生石と書いて「おおしこ」と読みます。
生石神社とは
生石神社は、1300年前から鎮座するという450トンもの巨石をご神体とする珍しい神社です。この巨石は日本の三奇石に数えられており、その神秘的な存在感で多くの参拝者を魅了し続けています。

日本三奇石の一つ「浮石」の正体
ここには「浮石」という奇岩があります。水の上に浮いているように見える「浮き石」ですが、実はこの「浮石」というのは、「浮いている」ことを指すのではありません。
基盤から遊離しかけて、ぐらぐらとしている不安定な石のことを言うそうなのです。この巨石は下の部分を削って掘りこんであり、切り離す直前の状態で、そのまま残っている石なんだそうです。
古文書に記された1300年の歴史
霊亀元年(715年)前後に成立したといわれる播磨国風土記の一節に、興味深い記述があります。
「作石(つくりいし)あり、形は屋(や)のごとし。長さ二丈、広さ一丈五尺、高さもかくの如し、名号を大石(おおいし)という」
この記述では、聖徳太子の時代に物部守屋によって造られた石と書いてあるそうです。確かに大きさもほぼ同じで、構造に「屋形」があり、その記述内容はまさにこの「石の宝殿」のことだと言われています。
なんと8世紀前半から1,300年もの間、ここに在り続けているのですね。
竜山石の採石場としての歴史
近辺は古来から、「竜山石(たつやまいし)」という良質な凝灰岩の採石場として有名な地域です。古墳時代から石棺の材料としても使われ、日本各地の墳墓で使われていました。
驚くことに、姫路城の石垣にもこの石が使われていると言います。「石の宝殿」もこの竜山丘陵にあり、その岩山の一角を掘り削って造り出されています。
石の宝殿の詳細な構造
石の宝殿の構造は以下の通りです

- 正面:幅6.5m、高さ5.6m、奥行5.6mの直方体
- 後面:幅2.5m、高さ2.9m、奥行1.9mの突起部がある家形の形状
- 重量:450トン以上と推定
謎に包まれた建造目的
このような石を、誰が何のために作ったのか?それはまだ定かではありません。
一説では、何かのために石を切り出そうとし、なんらかの原因があって途中でやめてしまったのではないかと言われています。その真相が現在まで解明されていない、謎の多い不思議な巨岩なのです。
神話と伝承
貞和4年(1348)に書かれた「峰相記(みねあいき)」にも、陰陽二神を祀る神社として生石神社の事が書かれています。人力で切り出そうとした巨岩が、この頃からは神の成せる業として伝承されています。
「生石神社略記」には、興味深い神話が記されています

大穴牟遅(おおあなむち)と少毘古那(すくなひこな)の二神が、天津神の命を受けてこの地に「石の宮殿」を造営し始めました。しかし、阿賀の神の反乱を受け、その鎮圧に時間を費やして夜明けになったため、この宮殿を正面に起こすことが出来なくなったとあります。
そして未完のまま、二神はこの石に籠もって永劫に国土を鎮めんと言明されました。それ以来、この宮殿は石之宝殿、鎮の石室(しずのいわや)と言われていると伝わっています。
江戸時代の参詣ブーム
この生石神社は12世紀には成立していたと推測されます。神社の「御参詣記録之事」によると、宝暦2年(1752)から安政6年(1859)の間に、なんと140名もの西国大名が参詣したそうです。
また、シーボルトも石の宝殿のスケッチを著書「日本」に残すなど、18種以上の絵図類が描かれ、江戸時代に広く信仰の対象となっていました。
まとめ
生石神社の石の宝殿は、1300年という長い歴史を持ちながら、いまだにその建造目的や方法が謎に包まれている不思議な巨石です。古代の技術力の高さを物語る一方で、神話や伝承に彩られた神秘的な存在として、現在も多くの人々を魅了し続けています。
実際に現地を訪れると、写真では伝わらない巨石の迫力と神秘的な雰囲気を感じることができます。
兵庫県を訪れる機会があれば、ぜひこの不思議な石の神社を訪れてみてください。